「地方分権」といえば、すべて正しい。これに対する会議的な批判や中庸的意見は、排除される雰囲気が作られ、禁忌となっている。
さらに批判的な思考さえも自主規制してしまい、地方分権のあるべき姿や是非などについて、考えることもしない。
「小さな政府」もそうだ。「規制緩和」も最近少し批判がでているが、これもそうだ。「官から民へ」もそうだ。「市場」主義もそうだ。「改革」もそうだ。
この中身のない危険なことばの呪いをぶつけながら、人の口を封じ、思考を停止させてゆく。
第28次地方制度調査会の答申を読んでいて最大の問題点は、基礎的自治体の合併により、県の役割がなくなるという前提に立っていることだ。平成17年までに市町村合併が進んだ訳だが、それにより、足腰能力のしっかりした基礎的自治体が出来たのか疑問である。合併後の市町村行政についての実態把握が必要なのではないか。
地制調では、まるですでに完璧な基礎的自治体ができたかのような前提で道州制を論じている。
道州制を論じるためには、基礎的自治体のあり方と現実問題としての合併について、把握分析する必要がある。その作業を行わない論理は、机上の論理と思われる。
本来精緻な理論やリアルな現実認識から出発した結果のものだろうが、あまりに単純化されたと思われるスローガンは危険だ。だれもそれに異を唱えることができないような雰囲気を醸し出す。あれこれと思いつくものがあるのが、ひとによってはそれはスローガンではない、真実だというものもあるだろう。しかし、論証なしで当然の前提のように使われるとやはり怪しいと思わざるをえない。
例えば、「民にできるものは民に」、「小さな政府」、「自己責任」、「市場が判断する」、など、これらのスローガンは本当にそうなのか、冷静に考える必要がある。もちろんこれらがスローガンであったとしてもある状況のなかでは積極的に主張することが正しい場面もあっただろう。しかし、国家や社会の未来を考える者は、やはりリアルに精緻に冷静に考える必要がある。
やはりスローガンは危険だ。
誰もが自分が正しいと信じている。凶悪犯でも自分が正しいと思っている。凶悪な反抗を悪と思っていなければ、当然そうだし、自分は凶悪な反抗をしたと思っていれば、そう思う自分は正しいと信じている。このことは心理学的、社会学的に正しいかどうかは、多少疑問だが、経験則上は真理であると思う。少なくとも、皆誰でもが自分は正しいと信じたがっている。盗人にも三分の理ということわざもある。
それゆえ、人を説得することはできない。人を説教で導くことはできない。その人自身が自分でその道を見つけなければ、迷い道を抜け出すことはできない。しかし、先人の経験や他人の意見は常に宝庫であり、そこから様々なものをくみ出さなければ、自分の泉も涸れてしまう。
自分が絶対正しいと思っていても、一旦、譲歩して、他人の意見を聞くことが大切である。少なくとも、人の意見を聞ける自分は正しいと思いたい。
また、反対に人を説得しようとするときは、説得しようとするのではなく、その人を理解しなければならないと思う。至難ではあるが。